KSP誕生秘話KSP story

民活法第1号認定。日本初のサイエンスパークとして誕生した、かながわサイエンスパークの沿革。

誕生秘話 マメ知識
かながわサイエンスパークは、日本の産業が大きく変わりゆく中、様々な人々のビジョンと想いが重なり、その具現化に向けた気概が結集して誕生しました。ここにその経緯を紹介します。 かながわサイエンスパークをより深く知るための、歴史的背景、人物詳細、関連組織、関連法規などの周辺情報です。
年号 かながわサイエンスパークの歴史 社会状況
1971年
(昭和46年)
ニクソンショック(ドルショック)で固定から変動相場制へ
1972年
(昭和47年)
田中角栄内閣発足、日中国交正常化、沖縄復帰
1973年
(昭和48年)
第1次オイルショック
1974年
(昭和49年)
1975年
(昭和50年)
ベトナム戦争終結
1976年
(昭和51年)
1977年
(昭和52年)
1978年 6月
(昭和53年)
長洲神奈川県知事 「頭脳センター構想」 提唱 日中平和友好条約調印
成田空港開港
1979年
(昭和54年)
第2次オイルショック
1980年
(昭和55年)
1981年 3月
(昭和56年)
伊藤川崎市長 「メカトロポリス構想」 提唱 スペースシャトル初飛行
1982年 7月
(昭和57年)
神奈川県研究開発型企業連絡会議(RADOC)発足 東北・上越新幹線開業
1984年 6月
(昭和59年)
RADOC主催「研究開発型企業全国交流大会」にて、「総合的科学技術団地」創設案を決議
7月 研究開発型企業全国交流大会が、神奈川県知事、川崎市長へ、サイエンスパーク設立の協力要請
12月 飛島建設が池貝鉄工溝口工場跡地を取得
1985年 5月
(昭和60年)
県、市、通産省に企画説明 プラザ合意により、ドル高・円安からドル安・円高へ突入
中国への工場移転「産業の空洞化」が顕著に。
7月 「かながわサイエンスパーク構想」調査研究会設置
研究開発型企業8千社へのアンケート調査実施
9月 研究開発型企業日米交流会議 開催
10月 欧州海外調査実施
11月 米国海外調査実施
1986年 3月
(昭和61年)
調査報告書完了
県、市が第三セクターへの出資金を予算計上
5月 建築基本設計開始
7月 KSP設立準備委員会準備事務局を計画地内に開設
9月 建築基本設計完了、環境調査実施
第1回株式会社ケイエスピー設立準備委員会開催(委員長:岡崎嘉平太)
建築実施設計開始
10月 近隣説明会
11月 旧池貝鉄工溝口工場の解体完了
通産大臣に対し、民活法に基づく特定施設認定申請
第2回株式会社ケイエスピー設立準備委員会開催
株式会社ケイエスピー発起人会開催(発起人総代:岡崎嘉平太)
12月 民活法適用第1号施設の認定を受ける
株式会社ケイエスピー 設立(初代社長:岡崎嘉平太)
1987年 4月
(昭和62年)
インキュベート事業の仕組み検討 国鉄の分割・民営化(JRの誕生)
世界的株価大暴落(ブラックマンデー)
6月 かながわサイエンスパーク建設工事着工
7月 全国2万8千社へKSPに対する立地意向調査実施
8月 欧州インキュベート調査団(団長:権田金治教授)派遣
10月 インキュベート事業試行 各アントレプレナープロジェクトの研究をIJR内で開始
かながわサイエンスパーウ5社運営協議会発足
1988年 4月
(昭和63年)
神奈川経営者育成塾 第1期開催(主催:RADOC)
かながわサイエンスパークテナント管理(株)設立
環境保全委員会発足
入居テナント全体施設説明会、入居募集開始
青函トンネル開業
9月 オーストラリア調査団派遣
8月 賃貸借契約予約開始
10月 (株)ケイエスピーコミュニティ設立
1989年 6月
(平成元年)
賃貸借本契約開始
県下初の地域冷暖房事業開始
平成へ改元、消費税導入
ベルリンの壁崩壊、マルタ会談冷戦終結、天安門事件
日経平均史上最高値 38,915円
7月 かながわサイエンスパーク竣工・開設

日本初のサイエンスパークを創る。~民活法第1号認定第三セクター かながわサイエンスパーク誕生秘話~

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第三セクター第一号認定。かながわサイエンスパーク誕生秘話

KSP誕生秘話

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かながわサイエンスパーク(KSP)は、重厚長大から軽薄短小への産業変遷、円高による工場の海外流出・国内空洞化、
中央から地方への権限委譲など、時代の大きな流れの中、様々な人のビジョンと想いが重なり、産学官の連携により誕生しました。
ここに、その経緯を紹介します。

【取材協力】

以下、氏名及び当時の所属

前列右より
清水 周 株式会社井上ジャパックス研究所 企画室長
増田 辰弘 神奈川県 商工部工業貿易課 主事
志茂 武 神奈川県 川崎地区行政センタ 主査

後列右より
安永 英資 日本開発銀行 業務企画部 主任
四手井 孝樹 飛島建設株式会社 営業本部開発室 主任
植松 了 川崎市 企画調整局企画課 主査
蛯名 喜代作 神奈川県 商工部産業政策課 主任主事

第1章 昭和の新産業改革

~主な出来事~
1978年(昭和53年)6月 長洲神奈川県知事「頭脳センター構想」提唱
1981年(昭和56年)3月 伊藤川崎市長「メカトロポリス構想」提唱

1970年~1980年前半は、世界経済の大きなうねりの中、神奈川県内の産業も変化を余儀なくされていた。
神奈川県川崎市は、戦後復興期より京浜工業地帯の中核として隆盛を極めたが、1973年(昭和48)年の石油危機以降、公害問題や地価高騰など、製造に関する環境問題が発生し、また、より安価な労働力を求め大企業の工場が海外及び地方に移転するなど、産業空洞化が問題となりつつあった。

経済学者であり、神奈川県を俯瞰的にとらえていた長洲一二知事は、この趨勢を早くから察知し、「このままでは日本は持たない、変革が必要だ」との危機感を抱いていた。そして1978年、長洲知事より「成熟化した経済のこれからの成長・発展を担うのは、天然資源でも資金でもなく、人間の「頭脳」である」との念いから「頭脳センター構想」が提唱された。

そこには、「神奈川をアジアと世界の科学技術のメッカに」「神奈川を世界の頭脳型産業のメッカに」とする高らかな目標が掲げられ、「これからの産業社会における主要な担い手は、創造的破壊(※)を行うクリエイターやイノベーター、そしてベンチャー企業である」とする新たなビジョンが拓かれた。

 

一方、川崎市においては、重厚長大型の産業から、機械産業と電気電子産業が融合したメカトロニクス産業への転換が始まっていた。また、都市整備を推し進める上で、構想従来型の工業都市ではなく、研究開発を中心とする新たなタイプの国際科学文化都市を目指していた。

そして1981年、伊藤三郎市長により、メカトロニクスを中心とする研究開発型の都市形成を明確かつ強力に推進するため、「メカトロポリス構想」が提唱された。この構想は、1983年(昭和58年)に策定した「2001かわさきプラン」の産業政策の基本方針にも反映されたが、高度な産業都市を目指すと同時に、都市開発における住工混在を防止し、その後の工場跡地のマンション化を抑制する理由となった。

 

このように、神奈川県では、長洲神奈川県知事が提唱した「頭脳センター構想」と、伊藤川崎市長が提唱した「メカトロポリス構想」という有力な産業政策が存在し、後の「かながわサイエンスパーク構想」に結び付く基盤が潜在していた。

(※)創造的破壊(そうぞうてきはかい)とは、ヨーゼフ・シュンペーターの著書『資本主義・社会主義・民主主義』の第7章で提唱された経済学用語の一つである 。経済発展というのは新たな効率的な方法が生み出されれば、それと同時に古い非効率的な方法は駆逐されていくという、その一連の新陳代謝を指す。創造的破壊は資本主義における経済発展そのものであり、これが起こる背景は基本的には外部環境の変化ではなく、企業内部のイノベーションであるとした。そして持続的な経済発展のためには絶えず新たなイノベーションで創造的破壊を行うことが重要であるとシュンペーターは説いた。

(出典)株式会社ケイエスピー編 『創造へのチャレンジ かながわサイエンスパーク』、1989年
    馬場昭男・植松了共著『かながわサイエンスパークの誕生』2001年

第2章 産官学の協創

~主な出来事~
1982年(昭和57年)7月 神奈川県研究開発型企業連絡会議(RADOC)発足
1984年(昭和59年)6月 RADOC主催「研究開発型企業全国交流大会」にて、
「総合的科学技術団地(後のサイエンスパーク)」創設案を決議

神奈川県庁の現場職員の間では、新登場した長洲知事の月例談話での「頭脳センター構想」や「米国東海岸、西海岸に勃興しつつあるスモールビジネスの存在」等の問題提起に大きな刺激を受けていた。そこで、県内の大手メーカーの傘下に属さず、独自の高い技術で成長している県内の研究開発型企業に注目し、意図的に接触を開始した。その結果として、1982年(昭和57年)7月、約40社からなる神奈川県研究開発型企業連絡会議(RADOC/Research And Development Oriented Companies)が発足した。

そのRADOCでは、研究開発型企業や関係機関との相互交流を通じて研究開発環境を向上させ、ひいては地域経済の発展に資することを目的とし、各社長が集う定例会や時代に先駆けた調査研究プロジェクト等が企画、開催されていた。
一方、このRADOCと同時期に、神奈川県政の産業政策を審議し、検討推進する機関として、中村秀一郎氏(当時専修大学教授)を座長とする総合産業政策策定委員会が設置された。長洲知事が提唱した「頭脳センター構想」の具現化に向けて、様々な議論が積み重ねられていた。(同委員会やKSP事業化研究コンソーシアムには、長洲知事の提唱した「頭脳センター構想」を支持する学者グループから多くメンバーが参加した。)

この委員会のメンバーにはRADOCの経営者も多数参加し、議論をより、深めるとともに、新たなアイデアを次々と創出していった。その中のひとりに、株式会社井上ジャパックス研究所の井上潔社長がいた。

中村秀一郎氏と井上潔氏は、新しいタイプの工業集積拠点について議論を積み上げ、提案書を作成した。「起業家の知的革命をリードする場の創出」をコンセプトとし、生産を軸とする工業団地ではなく、研究開発を軸とする科学工業団地が描かれた。この構想が後に「サイエンスパーク」と呼ばれることになった。この提案書は多少の手直しを経て、かながわサイエンスパークの原型となったvisibleな模型と共に、非公式ながら長洲知事と伊藤市長に提案された。

1984年(昭和59年)6月、RADOCは全国の中小企業に呼びかけ、「研究開発型企業全国交流大会」を開催した。参加者は500名。開催趣旨を次のように述べている。
「産業社会がひとつの時代を終え新しい時代を迎えようとしている。それは高度成長時代の終わりであり、外国からの導入技術時代の終わりであり、大企業時代の終わりである。全国いたる所に、たくましい起業家精神を持ち、先端技術・独自技術の研究開発を積極的に行う研究開発型企業が沸き出している。この全国交流大会は、このようなトップレベルの技術を持つ研究開発型企業が一堂に会し、技術情報の交流や各種施策の問題点を掘り下げ、わが国における研究開発型企業の研究環境の向上を図るものである」。 そして、この大会を通じて、かながわサイエンスパークの創設構想が初めて世に明かされた。
このように、神奈川県による県内の研究開発型企業への呼びかけが、県の研究開発振興のうねりとなり、全国にも波及していった中で、かながわサイエンスパーク創設につながるムーブメントとなった。
なお、このうねりは国内にとどまらずアジアサイエンスパーク協会(ASPA)の設立にも大きな影響を与えた。

(出典)株式会社ケイエスピー編 『創造へのチャレンジ かながわサイエンスパーク』、1989年

第3章 組織の壁

~主な出来事~
1984年(昭和59年)7月 研究開発型企業全国交流大会が、
神奈川県知事、川崎市長へ、サイエンスパーク設立の協力要請
1984年(昭和59年)12月 飛島建設が池貝鉄工溝口工場跡地を取得

全国交流大会の提案には、「単発的なものではなく、創造的な研究開発が継続的に行われるような場をつくることに、県も市も協力いただきたい」とする要請も含まれていた。これを受けた長洲知事と伊藤市長は、共に新たな産業政策プロジェクトを模索していた時期であり、それぞれの政策課題にも合致していると判断した。そして、県市ともに特命プロジェクトとして参画する「かながわサイエンスパーク(KSP)構想」が正式に始動した。

ところが、提案には真新しいコンセプトが溢れていたため、各行政の内部で理解が浸透できずにいた。1984年(昭和59年)8月、県と市の関係局部長を一堂に会して提案の取り扱いについて協議したが、KSP構想に必要な資金も用地も運営ノウハウも不確定要素が山積している状態の中、慎重論や実施困難論も出るなど、参加者の受け止め方に温度差があった。そこで、産学官の出身者からなる「KSP構想事業化研究グループ」を組織し、行政としては社会の様々な分野から多くの知恵と人材を取り込みながら、地域産業政策の見地から支援内容を模索していくことになった。

事業化研究グループでは、KSPの立地の候補地としていくつかの大規模工場跡地の利用をシミュレーションし、その中から研究開発型企業群が周辺に集積する、株式会社池貝鉄工 溝口本社工場の跡地を選出した。この用地は元々、1983年(昭和58年)秋に池貝鉄工が会社再建の一環として溝口本社工場を売りに出していた物件で、まずは事業化研究グループの中核メンバーである大手3社の総合建設会社が共同で買い付けるものとし、その価格まで合意していた。
ところが、いざ買い付けの段階になると3社のうち1社で決裁がかなり遅れ、その間に池貝鉄工側で社長交代があると、交渉自体が中断してしまった。そしてこの動きに先手を打つように、1984年(昭和59年)秋、池貝鉄工から川崎市に対して、中堅総合建設会社の飛島建設株式会社を買い手とし、銀行の計算センターを建設する利用計画が提出された。これに応戦するため、川崎市は、伊藤市長が提唱した「メカトロポリス構想」に基づく「公有地の拡大の推進に関する法律」により、研究開発用途による先行取得協議を発動した。さらに、池貝鉄工のメインバンク経由でもKSP構想への理解を求めたが、事業化研究グループの想定を大幅に上回る土地の買収価格が飛島建設から提示されている以上、池貝鉄工から関心を引き出すことはできなかった。
大手3社が土地取得を断念した中、1984年(昭和59年)12月、飛島建設が当地を取得した。
それでも、KSP構想の灯火は消えなかった。
依然として膠着状態が続いていたが、川崎市は窓口を通じて、飛島建設に対し、土地利用の規制や指導を行いながら協力を求めて食い下がった。その中、事業化研究グループのメンバーから「飛島建設の次期社長とされる若手の副社長、飛島章氏に接触すべきだ」とする意見が挙がり、最後の賭けに打って出た。RADOCの活動を推進していた神奈川県の担当者が、すぐさま水面下で要請して飛島副社長との面会を果たし、計画翻意の要請を行った。交渉は約束の30分を超えて2時間に及んだ。
それから年をまたいで3月までの間、11回もの議論を重ね、ついに飛島建設は役員会で公的セクターと連携してサイエンスパーク構想の事業化を進める決断を下した。
これにより、計算センターの計画は白紙に戻され、KSP創設の最大の関門であった土地問題が一気に解消された。

用地取得当時の池貝鉄工溝口本社工場(空撮)

用地取得当時の池貝鉄工溝口本社工場(空撮)

神奈川県と川崎市によるサイエンスパーク設立の方針決定の後、土地取得、事業パートナー募集、KSP構想の検討、資金調達、建設と事業は産官学の一致した熱意により通常では考えられない短期間で実現される。そのスピードを実現した理由の一つとして忘れてならないのは、事業推進の主体となった神奈川県と川崎市における意思決定の仕組みにあった。長洲神奈川県知事、伊藤川崎市長の方針決定の下で、その意を体し、県は久保孝雄理事(後の株式会社ケイエスピー社長)、市は小松秀熙企画調整局長を事業責任者とし、プロジェクトメンバーからの相談等には、トップダウン方式で即決された。

(出典)馬場昭男・植松了共著 『かながわサイエンスパークの誕生』、2001年

第4章 合意の加速

~主な出来事~
1985年(昭和60年)3月 事業パートナー募集
1985年(昭和60年)5月 県・市・通産省に企画説明

工業団地整備において、それまで官民が共同して整備運営まで相携える経験はなかった。行政側としては、いかにして事業の社会性、公共性を担保できるか、複数の民間事業者による提案を検討することとした。ただし、民間事業者の提案にあたり、インキュベーション事業のような、それまでの日本の社会にないコンセプトを理解されたのはごくわずかしかなかった。また、わずか2か月程度の提案期間しかない中、原則1業種1社からなる共同事業体の提案を公募した。 その結果、提案企業2社(井上ジャパックス研究所、飛島建設)のほか、協力企業として7社(協和銀行、西洋環境開発、日本合同ファイナンス、日本生命、日本長期信用銀行、安田信託銀行、横浜銀行)の連名で、神奈川県と川崎市、そして通産省へ企画書が提出された。
このうち、神奈川県と川崎市への企画書の提案は、1985年(昭和60年)5月28日、伊藤市長の執務室に長洲知事が訪問する中、本事業の後見人である財団法人先端加工機械技術振興協会(※) 理事長の岡崎嘉平太氏より、民間企業グループを代表して行われた。そして、そのまま会場を移し、神奈川県と川崎市の両首長が初めて席を並べた中で合同記者会見が行われた。新たなコンセプトと岡崎氏による情熱溢れる力強いコメントは、多くの関係者への感動とともに各紙のトップを飾り、産業界にインパクトを与えた。まさに新たな時代の幕開けを予感させる出来事だった。

(※)財団法人先端加工機械技術振興協会は、1980年3月に、航空宇宙関連機器、エネルギー機器、その他技術先端的な機械の製造に必要な加工機械およびその利用技術の発展に関する基礎的、応用的な技術の研究に係わる助成を通じて、先端的な加工機械および加工技術の向上を図り、以って今後のわが国の技術先端産業の健全な発展に寄与することを目的として、通商産業大臣の認可により、株式会社井上ジャッパクス研究所が中心となって設立された。その後、新公益法人制度への移行により2014年4月より一般社団法人に移行した。

(出典)馬場昭男・植松了共著 『かながわサイエンスパークの誕生』、2001年

第5章 コンテンツの整備

~主な出来事~
1985-86年(昭和60-61年) 100名以上の大規模な研究コンソーシアムが始動。
RADOCが主催し、シリコンバレーで日米会議開催

官民の調査研究主体が決まり、サイエンスパーク構想の協議が進展しても、前例のない事業への取組みとあって、まだ構想の域を出るものではなかった。基本コンセプトに盛り込まれたそれぞれの機能をどのような事業として構築するのか、中核的機能であるインキュベーション事業をどのように進めるのか、具現化に向けて多くの解決しなければならない問題が山積していた。 そこで、多くの民間事業者と深い共通理解を持つことが必要との観点から、事業の組み立て段階から将来の事業参加を想定した大がかりな事業化研究コンソーシアムを組織化することになった。

この事業化研究コンソーシアムへの参画に多くの手が挙がった中、業種業態に配慮して23社を選び、さらに県市や通産省、各大学教授を加え、総勢100名を超える産官学のメンバーで発足した。財団法人先端加工機械技術振興協会を事務局とし、世界のサイエンスパーク調査が重ねていく中、日本のサイエンスパークのコンセプトが醸成されていった。特筆すべきは、神奈川県と川崎市のトップの揺るぎない英断と、KSP実現への民の熱意である。構想検討の研究コンソーシアムを設立した神奈川県と川崎市の呼びかけに対し、企業23社が300万円の負担金を払い、参加希望を表明し、瞬く間に6,900万円の資金が調達され、この資金を基に短期間での集中的調査の後、翌3月には報告書が県、市に提出され、当初予算に株式会社ケイエスピーへの出資金が計上された。

事業化研究コンソーシアムでは、日米経済摩擦が騒がれていた1985年と86年に各1回、一部の外部の反発を押し切って「研究開発型企業道米会議」をシリコンバレーのサンタクララで開催した。コンソーシアムのメンバー100名でシリコンバレーの中心地ホテルを貸し切り、スタンフォード大学やシリコンバレーのベンチャー企業を交わって議論した。日米共にベンチャーによる新産業を目指す同志の間にボーダーはなく、相互のプレゼンテーションに盛大な拍手を送った。この会議を通じて様々な問題解決の糸口も見つかり、大成功だった。
事業化研究コンソーシアムはその後も欧米の先進的なサンエスパークに調査団を派遣するなど、実用性を踏まえた検討と検証を行い、「かながわサイエンスパーク構想調査報告書」がまとめられた。

(出典)専修大学都市構想政策研究センター『専修大学都市構想政策研究センター年報 第1号(追補版)』、2005年
    馬場昭男・植松了共著 『かながわサイエンスパークの誕生』、2001年

第6章 資本金設定と資金調達

~主な出来事~
1986年(昭和61年)5月 県、市が第三セクターへの出資金を予算計上

事業化研究コンソーシアムにおける当初の計画では、KSP構想を取り巻く出資環境が良好だったことから、事業運営会社となる株式会社ケイエスピーの資本金を100億円に想定していた。しかし、構想の具体化とともに、現実的な財務・収支シミュレーションが明らかになるにつれ、資本金規模が徐々に縮小していった。

一方、この時期に並行して、国の方では、官民出資の第3セクターを事業主体とする「民間事業者の能力の活用による特定施設の整備の促進に関する臨時措置法(民活法)」の制定が検討され、そのモデルケースとしてKSPに白羽の矢が立った。
ただし、この民活法に適用される条件として公的セクターの出資が第3セクターの資本金の1/3を超えることが求められたため、公的セクターの出資額に応じて資本金の総額が決まる状況だった。

出資額の着地点を探る中、市は民活法の適用を受けて国の認定事業として推進する方が、総合的にメリットが大きいと判断していた。そのためには公的セクターから積極的な姿勢を示す必要があるとの見解から、先行して5億円の予算を内定した。これが契機となり、県においても長洲知事のリーダーシップに拍車がかかり、慎重論が退けられ、5億円出資の拠出に至った。このようにして県、市が各々5億円の出資を先駆けて決めたことは当時としては異例であった。

それでも、公的セクター合わせて10億円の出資では、民活法上、資本金総額が最大30億円にしかならず、KSP構想の事業費を満たせる規模ではなかった。そこで、民活法に基づく出融資制度創設を要求していた日本開発銀行(現在の株式会社日本政策投資銀行、以下「開銀」)にも参画を呼び掛けることになった。開銀内では、「かながわサイエンスパークの意義や政策性は高い一方、複数の事業主体が存在し、誰が経営責任を負うか必ずしも明瞭ではない」など賛否両論の反応もあったが、最終的な判断として採算性を確保できる事業の策定を前提に県、市と同額の5億円の出資予算を計上した。
その上で、当時の国の民活法制定に向けた検討では、公的資金を「地方自活体のみとする」案があったため、開銀分の5億円まで含めたいとの要望書を知事名で作成し、大蔵省主税局へ持ち込んだ。そこで県、市が第3セクター経営の難しさ、民間資本の必要性、今後の民活のあり方を中心に熱弁を奮った。その場で承諾を得る手応えはなく、悲観的な様相も呈していたが、翌日にその要望が認められたとの連絡が入り驚嘆した。こうして、公的セクター15億円、民間セクター30億円、総額45億円を資本金とする計画が決まった。なお、民間セクターの出資については、事業化コンソーシアムでの事前認識があったことのほか、公的セクターの先行出資も呼び水となり、30億円を超える調達ができた。
結果的に民活法に則り、減額修正をお願いすることとなったが、それだけKSP構想の魅力と期待は大きかった。

(出典)株式会社ケイエスピー編 『創造へのチャレンジ かながわサイエンスパーク』、1989年

第7章 中核的事業主体会社の発足

~主な出来事~
1986年(昭和61年)12月 株式会社ケイエスピー 設立

産学官による協議が積み重ねられてきたことで、日本初のサイエンスパークとして保有すべき諸機能が明らかになってきたが、KSPの中核的事業主体となる株式会社ケイエスピーの事業内容やその設立プロセスを中心に検討が残されていた。具体的には、第3セクターとしての採算性と公共性を両立すべく適切な事業規模とその資金調達、組織人事体制など実務面も含めて多岐にわたる要件を固めていった。

まず、1986年(昭和61年)4月に各発起人の派遣職員で「第3セクター設立準備委員会事務局」を設置し、事業収支計画や民活法の整備計画の策定作業、出資金の募集などの対応にあたった。官民から派遣された職員は、全く異なる職場環境の中、未経験の担当業務にも昼夜を問わず一丸となって斬新かつ魅力的なプロジェクトの実現に使命感をもって取り組んだ。
その過程では、発起人の中からKSP構想の中核的機能であるインキュベーション事業の実現性に懐疑的な意見も見られ、抜本的な再検討に多大な時間と労力が費やされた。その結果、インキュベーション事業の実施にあたっては、持続可能な運営ができるよう県・市が連携して条件を整備し、民間側の合意を取り付けることができた。

こうして1986年(昭和61年)9月、かながわサイエンスパーク設立準備委員会を開催し、同年12月1日に「リサーチコア」として民活法適用第一号に認定され、同月17日の創立総会の開催をもって、第三セクターである株式会社ケイエスピーが設立された(法人登記日12月19日)。代表取締役に岡崎嘉平太氏、代表取締役副社長には井上潔氏と飛島章氏が選任された。

設立記者会見の様子

創立披露パーティーでの鏡割り

設立記者会見及び創立披露パーティーでの鏡割りの様子

(出典)株式会社ケイエスピー編 『創造へのチャレンジ かながわサイエンスパーク』、1989年

第8章 日本初のサイエンスパーク誕生

~主な出来事~
1987年(昭和62年)6月 かながわサイエンスパーク建設工事着工
1989年(平成元年)7月 かながわサイエンスパーク竣工・開設

かながわサイエンスパーク(KSP)は、「都市型サイエンスパーク」というコンセプトに基づき、企業や研究機関を寄せ集めた施設ではなく、地域社会に開かれたコミュニティの中で計画・設計されていった。

当初は、「都市の自由」を表現しようと設計を試みたが、住宅と近接している地区において、周辺マンションとの調整や接道条件により制約された。ある部分は断念したものの、環境的、形態的要件として、緑のオープンスペースや研究開発を支える施設として、24時間開放型の都市空間コンセプトは堅持した。

これには川崎市の建築指導当局の助言により、事例の少ない非住宅系の総合設計制度が導入された。これまでの基本設計を大幅に変更して公開空地を創出できたことにより、周辺住民の緑陰散策の場や盆踊り会場等に活用され、名実ともに地域に開かれた都市型サイエンスパークとなった。また、川崎市の溝の口駅再開発事業の中でシャトルバスヤードの確保ができ、従事者だけでなく周辺住民の利便性に供することができたのも拠点性を高める要因の1つとなった。

1987年(昭和62年)4月建築確認通知、5月に近隣住民との工事協定が締結され、6月1日より、1カ月平均20億円の工事出来高をあげるという大規模かつ短工期のKSP建設工事が始まった。厳しい条件のもと数多くの工夫とチャレンジが求められ、施工主の飛島建設は「躯体のPC化」「逆打工法」「鉄筋の岡組・メッシュ化」など、新しい工法を編み出していった。

工事中の写真(2020.11に頂いた写真より)

工事中の写真

また、当時は、とりわけ首都圏の建設工事案件に対して作業員が逼迫していたことから、人員の確保に向けて関係者が全国各地に出向き、現場内外に作業員の宿舎や食堂、売店を設置し、大量の作業員の迎え入れに応じた。1日に250台ものダンプが敷地を出入りする中、交通安全や周辺の交通量の変化などに多大の注意を払った。
建設の計画説明から工事の完了までの約2年にわたり、地域住民とのコミュニケーションを求め、工事状況説明の定例会や周辺住宅への「KSP工事ニュース」の配布をそれぞれ毎月行ったほか、苦情に真摯に応じながら理解の増進を図った。同じく、お膝元である川崎市も、行政の立場でKSP開発の反対運動への対応にあたったほか、工業地域にホテルを建てるために必要な法令手続きも迅速にまとめ上げていった。
さらに、溝の口駅とKSPを結ぶ「KSPシャトルバス」への無料乗車や、KSPふれあい夏祭り、環境保全委員会を通じた研究の安全性に係る情報開示など、開業後の協力関係についても協議をまとめ、永らくこの地への存在を認められるよう信頼関係を築いていった。

そのエピローグを代表する出来事として次のことがあった。

竣工直後、KSP建設反対運動のリーダー格であった方の娘さんから作文をいただいた。「私の家から見えていた、ぎざぎざ屋根の工場がなくなり、その代わりに、綺麗な、大きな建物が建ちました。かながわサイエンスパークといいます。私にはそれが、これから迎える21世紀に見えます」と書かれていた。作業員・関係者で作文を回し読み、本当に良い仕事をやり遂げたと、一同で気持ちを高ぶらせた。
かくして、全延べ作業員510,000人、総延べ労働時間4,500,000時間という労力の賜物により、1989年(平成元年)7月26日の竣工を迎えた。

完成後の外観写真(創造へのチャレンジより)

(出典)株式会社ケイエスピー編 『創造へのチャレンジ かながわサイエンスパーク』、1989年

第9章 日本の新産業形成に向けて革新を続ける

KSPは、1989年の開設以来、株式会社ケイエスピーによるインキュベーションと地方独立行政法人神奈川県立産業技術総合研究所(KISTEC)*による研究支援機能を備えている。また、2018年には神奈川県立川崎図書館も加わり、研究から事業化まで一体的にサポートし、新産業創造の拠点となることを目指している。

*1989年当時は、財団法人神奈川科学技術アカデミー(KAST)及び財団法人神奈川高度技術支援財団(KTF)としてそれぞれ発足。2005年に両財団が統合し、さらに2017年に神奈川県産業技術センターと統合し、地方独立行政法人神奈川県立産業技術総合研究所(KISTEC)として組成。


また、株式会社ケイエスピーは、自らもサイエンスパークやインキュベーション事業を切り拓いたベンチャーとして、先輩方の志を受け継ぎ、ベンチャー企業の成長促進のための様々なサービスを開発している。

●RADOCの有志で開いた神奈川経営者育成塾は、1992年から現在のKSPビジネスイノベーションスクールとして継承され、数多くのイノベーション人材を輩出と事業化を導いている。

●1997年に第1号を組成したKSP投資ファンドは、当時、中小有責法(中小企業等投資事業有限責任組合契約に関する法律)も、LPS法(投資事業有限責任組合契約に関する法律)も存在しない中、民法上の組合としてスタートした。現在、第6号のKSP投資ファンドを運用し、当時の投資方針と変わらず、研究開発型スタートアップに特化した投資を行っている。

*KSP-Think:2004年に日本鋼管株式会社(現JFEスチール株式会社)研究所跡地に設けられたテクノハブイノベーション川崎(THINK)内のインキュベーション区画。JFE都市開発株式会社と提携し、ものづくり事業を中心とするインキュベーションを行っている。


*KSP-Biotech Lab:2016年に再生・細胞医療の産業化を目指す国際戦略総合特区において神奈川県主導で設立されたライフイノベーションセンター(LIC)内のインキュベーション区画。かながわ再生・細胞医療産業化ネットワーク(RINK)や、再生・細胞医療分野の事業化プロジェクトに対する重点支援を行っている。


かつて、前例も思想もない中で始まったKSP構想は、日本のサイエンスパークのコンセプトとなり、新産業政策におけるモデルとなった。今でもこのKSPモデルを共有しようと、国内外から多くの見学者が訪れている。これからも、革新的な技術開発や新たな事業開発のバックアップを通じ、次世代産業の創造拠点を追い求めていく。

第10章 終わりに KSPの後世を担う人へ

この稿は、かながわサイエンスパーク(KSP)構想策定プロジェクトやその後の建設等に関わったメンバーの有志の方からのヒアリングを基に事務局でまとめたものである。

KSPは日本は勿論、アジアで最初のサイエンスパークとして構想される。それは我が国の高度経済成長の終焉や先進国へのキャッチアップ達成後の国家のあり方を模索する中で生まれたといえる。KSPの目指す所は、頭脳型産業構造の拠点であり、イノベーション実現の拠点、そしてその担い手であるイノベーター、ベンチャービジネス輩出の拠点としてのサイエンスパーク建設であった。

それ故に、KSPは単なるインキュベーターではなく、イノベーションの拠点であることが求められている。現在、KSPは、日本はもとよりアジアを代表するサイエンスパークとして高く評価されていることは、喜ばしい限りである。

更に、今後、KSPを担う後世の人に伝えたい。KSP誕生に辿り着くまでの過程で、多くの「天地人」の運命にも恵まれたこと、そして、その先人の熱き想いを、気概、矜持としてわすれないでほしいと。この稿がその一助になれば幸いである。