KSP誕生秘話KSP story

マメ知識

かながわサイエンスパークをより深く知るための、歴史的背景、人物詳細、
関連組織、関連法規などの周辺情報です。

戦後以降の神奈川の産業の歴史

神奈川の産業の歴史を振り返ると、戦後復興期には、国の方針である重厚長大産業の復興を目指すため、京浜臨海部の埋め立てを本格化するなど、産業再興資源として必要な、土地、工業用水、労働者住宅の確保を産業政策の中心に置いた。この経緯により、京浜地域を中心に、神奈川県内には産業集積が進むことになる。

神奈川の産業集積は内陸へ広がったが、1973年(昭和48)年の石油危機以降は、環境問題、地価の高騰など、さまざまな環境制約のなかで産業構造の転換が必要となった。そこで神奈川県の産業政策は、いち早く知識集約型への転換を図った。これにより、大学や研究機関などの知的資源の集積が進んだ。

その後、プラザ合意後の円高、東アジア地域の産業発展、経済のグローバル化により、大企業の製造部門を中心に海外進出が進むことになる。これが産業空洞化である。神奈川県内、とりわけ川崎地域では、先進工業地域であり、その先進性ゆえ、産業空洞化がいち早く顕在化した。

大規模工場の移転は、雇用機会の減少やサプライチェーンの崩壊をもたらすだけではなく、工場跡地がマンション化するに伴い、工業用途地域の住工混在が進行し、既存工場の製造環境が悪化するなど、行政の大きな課題となっていた。

一方、意欲ある製造業企業群は、時代の変化を見据え、研究開発・開発試作工場へと機能転換を進め、工場集積地であったJR南武線沿いには、先端的な技術、独創的な技術を有する研究開発型企業が台頭し始めていた。

当時は、こうした地域産業振興に潜在する諸課題の解決に向けて、地域からの新たなビジョンを構築していく必要があった。これが、長洲神奈川県知事の「頭脳センター構想」、伊藤川崎市長の「メカトロポリス構想」が提唱された背景である。

(出典)馬場昭男・植松了共著 『かながわサイエンスパークの誕生』、2001年

長洲知事月例談話

長洲神奈川県知事は、知事就任の翌月となる1975年(昭和50年)5月26日から月1度、庁内放送を通じ県職員に対し「おはよう、職員の皆さん」の出だしで、知事の考えていること、県政の課題等について、その時のテーマを定め語りかけた。出先機関は後に録音テープが送られて来て、再放送された。一般職員にとって雲の上の存在である知事の話を直接聞くことは先ず無く、またその内容は新規性、先見性に富んだ問題提起で多くの刺激を与えた。「地方の時代」、「民際外交」、「ともしび運動」、「情報公開」等、後に全国的課題になるテーマも多く含まれた。また2年目に入り、「産業政策」、「科学技術政策」、「頭脳センター構想」、「米国スモールビジネス」、「ベンチャービジネス」等の産業に係るテーマが多く語られた。

(出典)
・長洲一二 『燈燈無盡「地方の時代」をきりひらく』、1979年

中村秀一郎

長洲神奈川県政における産業政策の第一弾ともいうべき、総合産業政策策定委員会(1981年(昭和56年)発足)の座長をつとめた。また後述KSP事業化研究コンソーシアム委員長も務める。
日本の中小企業研究の第一人者であり、「中堅企業論」を説く。また清成忠男・平尾光司教授とともに「ベンチャー企業」という名称の命名者でもある。
井上潔氏とも懇意で、かながわサイエンスパーク誕生に関わる長洲知事との仲人役的存在であった。

●専修大学経済学部教授(当時)
●1995年(平成7年)、多摩大学学長
●2007年(平成19年)、死去。
(出典)馬場昭男・植松了共著『かながわサイエンスパークの誕生』、2001年

久保 孝雄

1975年(昭和50年)長洲知事登場時にその政策スタッフ(特別補佐官)として神奈川県に入庁、参事、理事を経て87年副知事に就任。91年から99年まで(株)ケイエスピーの初の専従社長を務め、設立初期の財政難であったKSPの経営基盤の確立を果たす。KSPの中興の祖。99年アジアサイエンスパーク協会(ASPA)を呼びかけ初代ASPA会長就任。99年川崎市産業振興財団理事長就任(03年まで)。現在、ASPA名誉会長、㈱ケイエスピー名誉フェローを務める。

井上潔

株式会社井上ジャパックス研究所(IJR)社長。
株式会社井上ジャパックス研究所(IJR)社長は、金型製作に不可欠な放電加工機を世界に先駆けて世に送り出したジャッパクス株式会社から生まれた研究開発型企業として知られている。IJRは当時1万件の特許を持ち、1日1件のペースで特許申請をして、研究開発型企業のモデルと見なされていた企業であった。
ロッキード社等に技術輸出し、渡米して各地を視察したときに、研究開発型企業の集積団地みたいなものが日本にも出来れば、日本の研究開発がより盛んになるのではないかという思いが芽生えていて「かながわサイエンスパーク」構想に繋がった。 ジャパックスの前身である日本放電加工研究所は、池貝鉄工溝口工場の一角で誕生したという経緯がある。
1986年(昭和61年)12月、株式会社ケイエスピー設立。代表取締役副社長に就任。KSPビジネスインキュベーション事業を指導。
2005年(平成17年)、死去。

民間事業者として当時を振り返って(飛島 章)

吉備国際大学客員教授 元飛島建設(株) 社長 飛島 章 氏 寄稿


昭和48年のオイル・ショックを境に日本経済は低成長期に入り、建設業も構造不況業種の仲間入りをしていました。公共事業のインフラ整備や民間の設備投資は、高度成長期と比べて大きく低迷し、将来の回復も見通せない時代に入っていました。当時、私は飛島建設(株)副社長・経営企画室長として会社の中長期経営計画の策定に取り組んでいました。それまで公共事業の土木工事施工を事業の柱としていた当社は、体質を大きく変革する必要に迫られており、新事業として不動産開発の比重を高めていく方向での事業転換を進めていました。
池貝鉄工所の跡地は、当社単独の事業用地として購入したのですが、行政当局から、長洲神奈川県知事が提唱されておられた「頭脳センター構想」を知らされ、社内でも検討を重ねたところ、日本の将来にとって重要な役割を担う同構想に共鳴すると共に、それらの施設と当社が考える賃貸型の不動産開発事業を組み合わせる形で事業化が見込めるということがわかり、KSPプロジェクトへの参加を決定したのでした。
プロジェクトを進める過程で、長洲知事を始め神奈川県や川崎市の御当局、岡崎嘉平太先生、井上潔社長など大先輩の方々の面識を得て、ご指導を仰ぐ機会を得ることができましたことは、まだ三十代後半の未熟な私にとって唯々幸運としか言えないものでした。㈱ケイエスピー初代社長の岡崎先生がお亡くなりになったあと、その私が2代目社長をお引き受けし、さらに3代目の久保社長にバトンタッチできたことも良い想い出のひとつです。
昨今の日本経済の停滞ぶりを見るにつけ、KSPが果たされてきた新しい時代を担う起業家の育成を、国のレベルでも早い時期に本気で取り組んでいたなら、どんなに良かったろうかと思います。改めて、長洲知事を始め行政当局の方々、そしてKSPに関わった多くの方々のご熱意とご尽力に敬意と称賛の意を表する次第です。
岡崎嘉平太

岡山県賀陽郡大和村(現・吉備中央町)で生まれる(後に、岡山県総社市名誉市民。岡山県名誉県民)。
東京帝国大学から日本銀行に入行し、日中戦争下、依願退職し、上海に華興商業銀行を設立して理事となった。この時、中国で豊富な人脈を築いた。
戦後、池貝鉄工社長(1949年)、丸善石油社長(1951年)、全日本空輸社長(1962年)などを歴任。

その後、日中覚書貿易事務所代表として、日中国交正常化に尽力。周恩来首相と親睦を深め、「兄、弟」と呼び合うほどの信頼関係を築いた。
日中国交正常化にあたり、田中角栄当時首相が中国を訪問する2日前、周恩来首相は岡崎氏をもてなすために食事会を開き、「中国には『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」「まもなく田中総理は中国に来られ、日中国交は正常化します。しかしその井戸を掘ったのは、岡崎さん、あなたです」と言ったという。
「国土も狭く資源もない我が国は、技術立国を目指すべきだ。」という持論を持っていたため、池貝鉄工の再建時やジャパックスの創業時に社長に就任してその思いの一部を満たしていたが、その思いは「かながわサイエンスパーク」で結実した。
1980年、井上潔氏とともに財団法人先端加工機械技術振興協会を設立し、理事長に就任。かながわサイエンスパーク構想の調査報告書作成の主体者となる。
1986年(昭和61年)12月、株式会社ケイエスピー設立。代表取締役に就任。
1989年(平成元年)9月、死去。
事業化研究コンソーシアム

この研究会は、大学教授9名(中村秀一郎氏、今井賢一氏、清成忠男氏、権田金治氏、伊藤滋氏等)、民間責任者10名、公共責任者4名、研究員51名、県市の研究オブザーバー12名、通産省等の助言者5名、事務局8名、その他の助言者を入れると総勢100名以上を数えた。

研究組織は、新産業インフラというハード設備の観点からの「地域環境整備部会」(部会長伊藤滋氏)と、機能・ソフトインフラ整備の観点からの「教育技術情報部会」(部会長清成忠雄氏)で構成され、それらの下に7つの分科会が設置された。

部会、分科会で研究、検討された内容は上部委員会である総合部会(代表中村秀一郎氏)で基本方向が確認された。委員は、今井健一氏、通商産業省棚橋裕治氏、神奈川県久保孝雄氏、川崎市小松秀煕氏、井上潔氏。総合部会は最高審議機関であるが、事業化に向けた具体的事項については、民間の責任者で構成される「企画推進委員会」が取り扱うこととした。

取材協力

(出典)
馬場昭男・植松了共著『かながわサイエンスパークの誕生』、2001年
株式会社ケイエスピー編『創造へのチャレンジ かながわサイエンスパーク』、1989年

民活法

民活法(民間事業者の能力の活用による特定施設の整備の促進に関する臨時措置法)は、民間事業者の能力を活用して、技術革新、情報化および国際化といった経済環境の変化に対応して、経済社会の基盤の充実に資する各種施設の整備を図ることにより、内需の拡大と地域社会の活性化等に寄与することを目的とした法律であり、1986年(昭和61年)に施行された。
国や地方公共団体が民間事業者と出資して運営する、半官半民の「第三セクター」は、民活法制定によりできた事業体といえる。
民活法認定第一号プロジェクトは、「かながわサイエンスパーク」である。

通産省が国策推進として民間活用を検討している中でかながわサイエンスパークの話を聞き、第一号案件としての打診を神奈川県に行い、以後、互いに連絡をとりつつ進める協力体制をしいた。国会議員を集めて朝食会を開き、民活法の説明を行い、理解を深めて頂いたうえで法案を通過させる、そういうところにも神奈川県の職員が関わっていた。

民活法は平成8年までの時限立法だったが、10年延長され、2006年(平成18年)役目を終え廃止となった。

             
KSP誕生の「天地人」

孟子の教えである「天の時 地の利 人の和」のように、まさにKSP誕生は、幾つかの運「天地人」の連鎖によってもたらされた。
まず、「天の時」としては、民活法にも代表されるように各省庁上げて内需を喚起するための政策が展開され、民間も資金需要が旺盛で、新たな投資に積極的だったことがあげられる。不動産ベースで言えば、バブルヘ進む右肩上がりの初期の段階にこのプロジェクトが仕込まれたため、事業の組み立てを円滑に進めることができた。さらにベンチャー企業が澎湃(ほうはい)と沸き上がる中、この時を逃さす新規性のあるコンセプトで新産業育成支援という時代要請に的確に応えたプロジエクトだった。

次に、川崎という「地の利」が挙げられる。我が国有数の研究開発機関が集積し、新宿・渋谷と霞ヶ関にはトライアングルに位置しており、何れにも30分以内の移動距離にある。
そして、特筆すべきは「人の和」である。どんなに良好な時代環境でも、また、魅力あるビジネスプランでも、結局、人に尽きる。それぞれの人が、それぞれの立場で役割を果たし、連携したことにほかならない。この県・市共同事業にかけた知事と市長の強い想いと、それを実践したスタッフが存在した。このプロジェクトの推進にあたっては、各行政の産業政策部門における通常のライン業務としてはなじまないものだったため、具体的な事業フレームが見えてくるまでの間、少数の県、市、民間の特定スタッフを中心にトップダウン方式によって進められた。この結果、特命プロジェクトの功罪はあるとしても、各段階での意思決定はスピーディーに行われ、通常のライン業務では考えられない進捗がみられた。
「気力のない10人より、やる気のある1人」の方が、いかにパワーになるかが実証されたプロジェクトでもあった。              
取材協力者(KSPの多彩な担ぎ手たち)の紹介

どんな事業にも神輿に乗る人とそれを担ぐ人がいる。KSPでも神輿に乗った人は語られるが担いだ人はあまり語られない。実はこのプロジェクト神輿に乗った人も立派だが担いだ人もすごい。いや、見方によってはこの担いだ人のほうのレベルが高かったのかも知れない。少なくとも彼らが居なかったこの事業が結実出来なかったのは間違いない。

まず、この担ぎ手の棟梁格は飛島建設の四手井孝樹さんである。いや正確には彼の部下を入れた10人を超える四手井軍団である。彼は当時飛島章社長の側近でこの事業のなにからなにまで目配りをしていた。事業の難題が出て来る度に登場しそれこそ手品のごとく解決していった。
次が、川崎市の井上裕幸さんと植松了さんである。今だから言えるがKSPは県市協調プロジェクトであったものの当初神奈川県はこの事業に躊躇していた。県庁内に慎重派も多かった。この時期に両者は民間企業を鼓舞し事業を引っ張っていった。
3番手が、神奈川県の馬場昭男さんと増田辰弘さんである。両者は、神奈川県研究開発型企業連絡会議(RADOC)などを進める庁内の改革派であるもの少数派であった。KSPプロジェクトの国との交渉や民間との調整を行ったが実は一番時間を割いたのがこの県庁内の調整であった。もうひとりインキュベート事業の志茂武さんである。正直既存の商工行政では力があり余っていた彼の実力はKSPで願ってもないチャンスが訪れる。
4番手が、井上ジャパックス研究所(IJR)の清水周さんである。彼は、同社の秘書室長、総務課長、企画室長を兼ねた様な位置であった。これも今だから言えるが井上潔社長は大変気難しい方であった。この気難しいボスの機嫌を取りながら社内をまとめたことは隠れたクリーンヒットである。
5番手が、日本開発銀行(現在の日本政策投資銀行)の脇安生さんと安永英資さんである。当時は現在と異なり、前例のない新しい事業に民間銀行はまだ保守的であった。そして何よりも政府系の銀行だから心配ないと思っていた日本開発銀行内部にも慎重論があった。これらの水面下の調整・根回しを行ったのがこの両者である。
6番手が、当時の通商産業省(現在経済産業省)の民間活力推進室の担当者である。これも今ではすごい顔触れになる。初代が津上俊哉さん(現在は著名な中国経済評論家)、2代目が松井孝治さん現在(慶応大学教授、元官房副長官)、3代目が波多野淳彦さん(現在上場企業ASTI(株)社長)である。
KSPは、民活法の成立と同時進行形で進めていた。いわば、事業を進めながら法律を作り、施行するという特殊な事情があった。細かな打ち合わせを行い時にはKSPの事情に合わせて法律を、時には法律に合わせてKSPの事業を両者で創り上げて行った。
これらが主な担ぎ手であるが、もっと重要なことは、この多彩な担ぎ手を支える担ぎ手の担ぎ手が各組織に担ぎ手の10倍ぐらいと沢山いたことである。紙面の都合ですべては紹介できないがとかく目立って派手な行動をしがちな多彩な担ぎ手の陰に隠れて目立たず見事に静かに支え続けた。
KSPの山が高ければ高いほど谷は深い。神輿に乗った人がフットライトを浴びるのに比較し、大衆嫉妬社会の常では山が高かったゆえに担ぎ手のその後の人生にはあまり恵まれなかった人も少なくない。明治維新などと同様血を流した人とその成果を得る人はまったく別なのである。その意味でも多くの教訓を残した事業であった。